宇田川宣人 ─ 板塀、あるいは心のスクリーン

武田 義明

■ 作品

  キャンバスいっぱいに大小様々の大きさの朽ちた板を複雑に組んだ板塀が描かれ、その中央にハートの記号が大きく浮かべられている。記号のまわりは明るい緑に染められ、花や蝶や人物などの小さな形象がいくつか散りばめられている。宇田川宣人氏のハートシリーズの一つである。同時期の作品では、ハートの代わりに✕、△、〇記号もあり、様々なイメージ実験が試みられている。暗く荒れた板塀や大胆な記号の配置にもかかわらず、全体的には穏やかな印象を受ける。現代美術の窮屈さはなく、ほのぼのとした人間味やポップな遊び感覚さえある。板の木目模様、記号、形象と多層化されたこのイメージ構造は、氏の長い創作活動の過程で発見されたオリジナルな方法である。

 宇田川氏のニューヨークでの個展(2006年9月)に際し、アメリカの著名な美術評論家エドワード・ルーシー=スミス氏が一文を寄せている。ここでスミス氏は、具象的な木目模様と抽象的記号という異質なイメージの微妙な緊張関係によって日本固有の「粋」の美が表出されているとし、そこにモダニズム絵画の新たな可能性を見出すことができるとして次のように述べている。

 「熟慮された粗さとやさしい優雅さとの結合、それは日本の伝統的芸術の根本となる考えを具現化しているが、しかし現代美術の運動(モダン・ムーブメント)に紛れもなく結ばれる形をなしている。それによって氏の作品は、ほぼ一周してモダニズムの経路を進んでいる。」(ウォルターウイッキサー・ギャラリー、ニューヨーク個展図録、2006年)

 本稿ではこのスミス氏の示唆をもとに、宇田川氏の作品について私なりの少しの考察を試みたい。

■ 画業の始まり

 宇田川氏は、戦火激しい1944(昭和19)年、横浜で生まれ、1945年5月29日の空襲で九死に一生を得て生き延びた。少年時代は、埼玉県の綾瀬川中流の田舎で過ごす。絵が好きな多感な少年であった。1963年、東京藝術大学へ入学。一、二年は久保守研究室、三、四年から大学院、研究生までの五年間は小磯良平研究室で学ぶ。ちょうどその頃は、東京オリンピックから大阪万国博覧会などが開催された高度経済成長期で、芸術においても様々な表現活動が活発に競り合っていた。戦後の保守的な芸術制度に飽き足らず、社会の不条理に対して過激で多様な表現が噴きだしていた。そこでは芸術の存立そのものが問われていた。一体、芸術とは何か。たとえば実存主義者のJ・P・サルトルは、「文学は飢えた子供の前で何ができるのか」という厳しい問いを投げかけ、現代状況を生きる主体的想像力の重要性を主張していた。他方、理性的主体としての人間そのものへの懐疑によって芸術の解体を主張する流れもあった。そうした多様な芸術思潮が混沌と渦巻く状況のまっただ中で、芸術系学生の多くは自らの拠って立つ位置を模索していた。宇田川氏もその一人であった。

 欧米から流入してきたモダンアートの領域では、特にアメリカの美術評論家クレメント・グリーンバーグが提唱する物語性やイリュージョンを排する抽象画が盛んであったが、宇田川氏は生身の人間を表現することから離れることができなかった。院生の頃は、幾何学的抽象形の中に顔や手足などを組み入れた半具象の表現によって、不可解な人間存在を根源から問う作品を制作していた。その人間への問いを基本とする芸術信条は、今でも一貫して続いている。

 1971年、宇田川氏は福岡市の九州産業大学芸術学部の教員に就く。九州産業大学は、1960(昭和35)年に創立(当初は九州商科大学、三年後に改称)。芸術学部は、1966年に設置された。氏はここで若い学生たちの指導にあたりながら、同時に自らの絵画制作や展覧会活動を続けていた。

 しかし80年代後半、「人生にも制作にも行き詰まりを感じる」ようになったと回想している。時代は、バブル経済の急激な上昇やベルリンの壁の崩壊など新時代への期待が膨らんでいたのだが、まもなく株価や地価が一気に下落、日本経済は長期の不況に陥ることになる。 こうした中で氏は、自己の原点に立ち帰った地点から新たな絵画世界の探求を試み始めた。様々な実験が繰り返し続けられたであろうと想像する。やがてひとつのイメージが立ち現れてきた。それは木目模様であった。

 1989年、その最初の作品である「遠い夏の影-X」を発表した。実はこの朽ちた板を用いるイメージは70年代の作品において部分的に見られるのだが、全面的に主題化されるのはこの時からである。それは150号サイズの重厚な作品で、荒れた木目模様と大きな ✕ 記号の影とを重ねるイメージから、生の重みがひしひしと迫ってくる。やがてその重厚感は昇華され独特の〝軽み〟や〝粋〟を感じる現代絵画へと展開してゆく。だがそれにしても、何故、木目模様や✕記号なのだろうか。

■ 作品の特徴

⑴ テンペラ画技法について

 宇田川氏が木目模様を描くにあたって、テンペラ画の果たした役割は大きかった。テンペラ画とは、15世紀ルネサンス期まで主流の絵画技法であり、金箔の輝きや豊かな色調を表出することのできる技法であったが、油彩の普及に押されて忘れられていた。このテンペラ画技法が日本に導入される経緯について氏は詳細に記している。

 「それらのテンペラの本格的技法は二人の画家によって1970年に初めて我が国にもたらされた。一人はローマからフランチェスカの板絵にみるような黄金背景技法を携えて帰国した東北出身(福島県いわき市)の田口安男氏であり、もう一人はウィーンからファン・エイクの系譜をひく樹脂テンペラによる混合技法をもたらした九州の熊本市の春口光義氏である。」(「ARTing NO.8」2011)

 1971年の夏、宇田川氏は、その春口氏から油絵の上に水で描いていく樹脂テンペラの技法、つまり水と油が混じり合う驚くべき絵画技法を習う機会を得た。またその一方で田口氏との交流も始められていた。以来、氏は、田口氏と春口氏とのつながりを経て福岡でのテンペラ画の普及に努めると共に、この新しいメディウムを自らの絵画世界に取りいれ、従来の洋画の制約から抜け出た自由な立場から絵画世界の探求に向かうことになった。

 この樹脂テンペラの技法は、宇田川氏がイメージしつつあった木目模様を形にするのに実にぴったりの技法であった。まず始めに油絵の具で下地をつくる。その上にホワイトの樹脂テンペラ絵の具を墨流しのような方法で流し込み、柔らかに流れる自然な木目のイメージを描き出した。氏は、この表現方法を、木の文化である日本の絵画表現技法のたらしこみや墨流しによる木目模様表現と、石の文化である西洋の古典絵画技法のマーブリング技法による大理石模様表現とを融合させた言葉として、「ジャパニーズ・マーブリング」と名付けた。

⑵ 木目模様について

 宇田川氏にとって木目模様は、遠い思い出の中の原風景である。当時、木目模様は、板塀、どぶ板、床板、階段、柱など、日常的なありふれた風景であった。その多くが崩れ、ひび割れ、朽ち果てようとしていた。そんな原風景を、大小さまざまな生活の臭いや汚れの染みついた廃材の断片がパッチワークのように組み合わされた板塀のイメージとして描かれている。それは戦後の時代を象徴するイメージなのか、食料や生活用品が不十分な状況の中にあって必死に立ち上がっていこうとする人々の思いが込められている。それは悲惨な現実の風景であると同時に、懐かしい思い出の風景でもあった。

 ところで木目模様とは、木の年輪の断面である。それは、若木が大地から芽生え、成長し、大木となる長い期間を示している。その後、木は伐採されて材木となり、家屋や家具や塀や橋に加工されて人々の生活の重要な支えとなり、やがていつか廃材となる。

 宇田川氏の作品の背景である木目模様には、そんな木の生長する自然の歴史と、木と共に営まれてきた生々しい生活の歴史が込められている。その悠久の歴史的時間の流れを強調するためだろうか、ここでの木目模様は写実というよりも灰色のモノトーンの幻影のようである。しかも、その幻影化された木目の流動は、年輪のイメージだけでなく、水の流れにも見えてくる。ただしそれは透明な水ではなく、どろどろと濁った灰色の泥水の流れだ。だがその底には、壮大な自然と歴史を創り続けている純粋な生命が滔々と流れているのではないか。幻影としての木目模様は、無常なる時代の流れの中にあってさえも、たくましく生き続ける純粋な生命の奔流を表象しているようである。

  ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 (鴨長明「方丈記」)

⑶ 記号について

 画家は、キャンバスに描いた木目模様をじっと見つめ続けている。
 想い出を辿るように何日も、何日も、見続けている。
 ある時、ふっと、木目模様の上に「✕」の形をした光のイメージが浮かんだ。それが何を意味しているのかわからない。もしかすると想い出を打ち消そうとする無意識の現れだったのか、あるいは子供の頃、壁や地面の上に「✕」や「〇」や「へのへのもへじ」など、無邪気に落書きをしていた記憶に触発されたのだろうか。

 「✕」の記号の光に続いて、「〇」や「△」や渦巻き形の光が、木目模様の表面を戯れながらさらさらと流れていく。それは、宇田川氏の少年時代の記憶のなかの光、薄暗い家の奥の壁や畳の上に障子のすき間から射し込んできた光かもしれない。夜明けの光か、夕焼けの光か。今にも消え入りそうな淡い光。生まれてはふっと消えていく光。むしろ影と言った方がいいようなとらえどころなく移ろう光の痕跡、月影のように――。

  月影の見ゆるにつけて水底を天つ空とや思ひまどはん (紀貫之)

⑷ 形象と文字について

 ハート記号のまわりに様々な形象が散りばめられている。どこからとなく現れてはきらきらと舞いながら消えていく夢のような断片的イメージである。草花であったり、鳥であったり、女性像であったり、文字であったりと様々である。

 「子供の頃、天井の木目やしみなどに昆虫や動物の形を探し出したときのような方法で、(木目模様を)長い間見つめていると、そこに心に残っていることや意識下の世界」(「宇田川宣人 画文集」2014年)が形象となって現れてきたのだと、宇田川氏は述べている。

 これら形象は、「〇」や「✕」の記号と同じく特別の意味を示しているとは思えないが、そこに「花鳥風月」を愛でる日本的な情感が働いているようである。だがそれは単に命のはかなさを哀しむ心理に流される装飾ではない。花の命は短いけれども、その一瞬の開花に全宇宙の力が凝縮している。木目模様に散りばめられた形象のそれぞれには、そんな一瞬一瞬の生の喜びが託されている。氏の作品に穏やかな明るさを感じるのはそのためだろう。

  春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり (道元)

 そんな記号や形象の間のところどころに文字を毛筆で書きつけた作品もある。それらは、アメリカのニューアーツプログラムやペンシルべニア大学、オーストラリアのサザンクロス大学などに客員教授・芸術家として長期海外滞在中に制作された作品に多く見ることができるが、「日常的な心情を吐露する言葉」だと、宇田川氏は言う。

 平安時代、歌人は宴席で屏風の絵を見て歌を詠み、その屏風に直接書きこんだり、色紙に書いて貼りつけたりしたという。これを「歌屏風」と呼び、「そこでは言葉とイメージが一つになって、豊かな交響的世界が展開」(高階秀爾「日本人にとって美しさとは何か」筑摩書房、2015)されていたという。

 そこであらためて宇田川氏の作品を前にすると、私には、キャンバスがひとつの「屏風」のように見えてきたのだった。その背景は荒れて朽ち果てた木目模様であり、金屏風のような黄金の華麗さはない。だがその板塀をスクリーンとして夢のような記号や形象がほのかに舞い、そこに様々な記憶が重ねられながら四季と人生とを織り上げるその生命的な深い美しさに、不意に「もののあはれ」という言葉さえ浮かんでくる。それはまさに現代絵画としての「屏風」であると言えないだろうか。

■ まとめ

 こうして宇田川氏の作品は、木目模様、記号の光と影、形象や文字などによるイメージの重層的構造化によって日本的な無意識の層に接続されている。四季の流れと共に生きる日本的な無常の心が明るくポップなモダニズムの中に溶け込むことによって、オリジナルな絵画世界が創出されている。それは、少年の頃から今に至るまでの様々な思い出が投影される記憶のスクリーンでもあった。喜ばしい記憶もあれば哀しい記憶もある。あいまいな記憶もあれば、鮮明な記憶もある。すっかり忘れてしまったもののほうが多いかもしれない。そこで氏は、「激動の20世紀後半に生きた世代の一人として、私の目と心をできるだけ深く刻みこんで置きたい」(前掲「画文集」)と言う。

 宇田川氏は、日本人の感性や心をテーマとする現代洋画家として、欧米の現代美術の中心地であるニューヨークにおいて個展やグループ展など十数回(画廊企画)の作品発表活動を行ってきた。またアジア諸国においても、同じ東洋人として五十数回に及ぶ展覧会活動を続けてきた。

 現在、氏は、アジア美術家連盟日本委員会の代表として、アジア各国(インドネシア、シンガポール、マレーシア、ヴェトナム、タイ、フィリッピン、中国、マカオ、香港、台湾、モンゴル、韓国)の作家たちとの芸術交流に心血を注いでいる。同じアジア圏とはいえ、自然風土、社会慣習、政治情勢の全く異なる地域で活動する作家たちであり、彼らが取り組むテーマは、ポストコロニアル、ジェンダー、マイノリティ、クレオール、……と多岐にわたっている。21世紀、日本の作家たちが、これら異文化圏との芸術交流を通じて、どんな刺激を受け、どんな芸術世界を展開するか。人間存在への問いを芸術信条としてきた氏にとって期待を寄せるところであり、大きな楽しみでもあるだろう。

武田 義明「福岡現在芸術ノート」(㈲花書院、令和3年発行)より