(Photo by Mako)

ー 宇田川宣人(うだがわ のりと) ー
– Norito Udagawa –

-ごあいさつ-

 私は大戦中の横浜市で生まれ、空爆で燃え盛る末吉町を母の背で煙に巻かれて逃げまどい、大岡川に浮きつ沈みつしながらも九死に一生を得て生き延び、岩槻市に移り成長した。物心ついた頃は、戦後日本の民主化や合理化などの社会運動が盛んになって行く時期だったが、一方では、人々が生き抜くために闇や違法行為が蔓延している世の中が続いていた。また、大戦の加害国としての重い責任と罪の意識、更に、敗戦の傷心と虚脱感が入り混じった、暗く不安なデリケートな社会状況が続く中で、焦土から立ち上がろうと、もがき苦しむ様々な人生体験を携えて集まる人々が織りなす、この時代ならではの、複雑でナイーブな特質を持つ文化に育まれて、この世代の私たちは成長した。その村境いに流れていた綾瀬川には、子供たちが集まってよく遊んだ「ぶっくれ橋」がかかっていた。その人と人、村と村をつなぐ、かろうじて渡ることのできる、壊れかかった、朽ちた板を組み合わせただけの質素な橋の姿に、私が感じていたあの頃の時代の空気が象徴的に現れているような気がしていた。

 その橋を春高から合格通知が届いたばかりの春浅い日に、土手の下に隠れるようにして、見上げながら描いた。今振り返ると、この、ぶっくれ橋を写生した、その時、その場所が正に私の画家としての出発点であった。この、ぶっくれ橋のシンプルな姿は構成の美しさと、その重要性を感覚的に私の体内に汲み込ませてくれたような気がするし、また、モダニズムの単純化と強調の私の行きつくところの形を示唆していたようにも思える。更に、その橋のたもとに咲いていた、名も知らぬ小さな花や、それに、そっと、とまる蝶やとんぼは私の心を慰め、ポストモダンの癒しの心情や繊細な情緒を培ってくれたような気がしている。

 春高や御茶ノ水美術学院ではデッサンを鍛え、7年間の東京芸術大学生活では小磯良平教授や教室の諸先輩から、モダニズムの絵画大系やそれらの表現の神髄についてまでたたき込まれた。しかし、その実践たる自分の絵画表現における芸術創造の世界においては、あまりにも深遠すぎて、簡単に到達できる生やさしい道ではないことを知らされただけだった。
 1971年、春の小磯教授退官時に私も芸大を離れ、すぐに、初めての地、福岡の九州産業大学芸術学部に美術研究の場を移した。丁度、その頃は高度経済成長で活気に満ちた時代であったが、工業化社会から情報社会に移行し、また、芸術の世界においてもモダンアートからポストモダンアートに、更に、時代の思想を反映したアートだけでなく、アートそれ自体の持つ意味や価値が評価される「アート」の時代に、転換した時代であった。
 私はその時代の変化を、明確に、自覚してなかったが、私の作品にも、知らぬ間にその影響が及んでいた。モダニズムの系譜を引く造形的構成と私の横浜物語の不条理が直観させ、付き蠢かせる人々の影を融合させた画面から、一挙に構成の要素が後退し、直接的に人間の様態を剝き出しにしたポストモダン的表現に変わっていた。その新しい表現に対応させる絵画技法は思いもかけず、九州産業大学の教育研究の場で、初めて、テンペラと混合技法に出会い、修得することができた。
 私は、九州の風土や社会に身をまかせて溶け込みながら、人々や自分を見つめ、「青春」、「遊戯」、「中年」のシリーズを20代後半から40代半ばまで、20年間にわたり制作し続けた。そのうち、製作にも、人生にも行き詰まりを感じるようになり、あるショックから✕の形の写実的表現に辿り着いた。その時の胸がときめくような高揚感は私のポストモダンアートを閉じて、自分の感性を前面に押し出した新たな私のアートの始まりを高らかに宣言してくれた。
 この✕や、その後の◯、△、▢などの私の表現は、モダニズムのバウハウスや記号論的発想を意識したものでもなく、また、直接に、仙厓の東洋的感性に影響を受けたものでもない。只、単に、45歳の1989年の夏に、テンペラによりジャパニーズマーブリングをほどこした150号のキャンパスに映ったような気がした✕の影を写実的に追い求めた結果、「遠い夏の影-X」として作品化することができた。当時の心境を考えると、造形的思考をめぐらす気力も衰えて、只、直観と感性に頼るしかない制作のなかで生まれたリアリズム表現で、私のターニングポイントとなった作品といえる。

 その後、私はニューアーツ・プログラムや、サザンクロス大学、ペンシルベニア大学などから客員芸術家として招待され、アメリカ、オーストラリア、アジア諸国などで、作品発表や講演活動を続けながら、いろいろな形の心模様に出会い、表現の幅を広げてきた。近年はハートの意味する今日のグローバル社会における新たな重要性が私の胸に突き刺さっている。しかし、幸福と博愛の価値観が定着していて、余りにも、大衆に人気の高い、崇高な形に対し、安易な気持ちで横から入れる余地は残されていないと思うし、新たに芸術のテーマとして挑むもの誠におこがましいことだと自覚している。それでも、尚、私の心を駆り立て、付き動かされるものがあり、しばらくは、今日の社会から、大切なこの形をお借りして、これまでのイメージを壊さないようにして、更に新鮮な現代のハートの世界を表現してみたいと試行している。また、ジェイムス.F.L.キャロル氏やエドワード・ルーシー=スミス氏などの私の作品に対する真摯な批評や提案を受け止めて、日本の美意識の反映を試みているが、これもまた、道半ばである。
 このようにして、常ならぬ移ろう社会のなかで、その時の流れに身をまかせ、波間に浮きつ沈みつしながらも、画業を続けてくることができたのは私にとって幸運なことであった。ぶっくれ橋を描いてから62年が過ぎて、この度、喜寿を迎えた。これを機にして関係者のご支援によりホームページを立ち上げることに至った。皆様のこれまでのご指導とご鞭撻に心から深く感謝申し上げ、ささやかなホームページを開く。

2021年5月 吉日 今宿にて