宇田川 宣人

 福岡文化連盟は創立50周年を迎えた。7月2日に今年度の定例総会が開催され、その記念の懇親会の席で、多田昭重理事長は、福文連を生み、育て、亡くなるまでリーダーシップを発揮した青木秀前理事長の功績を讃え、理事長引き継ぎ時に受けた心のこもった薫陶などを披露した。また、発足当初から半世紀にわたる長い間の華麗、且つ、活力ある福文連の活動を支えてきた多くの会員の労をねぎらい感謝の言葉を述べた。

 また、特別功労賞を受けた二人も挨拶に立ち、福文連の創立に直接関わった末永直行氏は、青木氏や古森美智子さんら七人で集い、福文連設立に向けて情熱を傾けた若い時代を振り返った。

 実際、古賀透前事務局長や吉里哲夫元事務局長時代の機関誌『文化ふくおか』から文連史を紐解くと、福文連には前史があり、1962年10月に瓦林潔九州電力副社長など財界人と、コーディネーター役の野口義夫西日本新聞社社長、原田種夫氏、伊藤研之氏、安永良徳氏、森脇憲三氏などの文学芸術文化関係の各分野の第一人者達が九州文化推進協議会を結成し、二年間で14回にわたり、協議を重ねた。

 『文化ふくおか』の回想記事には、当時、若い文化部記者としてこの協議会に臨んだ青木氏は、美術館博物館建設、九州芸工大誘致、県市の文化課設置要望など、正に「無から有」を生じさせる迫力ある真剣な議論を目の当たりにして大きな感動を受けたことが記されている。青木氏、末永氏を中心とする若手七人衆は一緒に集いながら、この感動を分かち合っていたと思われる。

 この時の、全国に先駆けとなった福岡の都市としての基本的文化基盤の体系的整備は、1965年9月に発足した福文連の前身である福岡市文化連盟(瓦林会長・森脇理事長)に結実し、その福文連が九州・沖縄を見据えて1968年4月に設立した九州沖縄文化団体連合会(現在の九州文化協会)につながった。九州文化協会はのちに九州芸術祭文学賞を主催し、四人の芥川賞作家をはじめ各種文学賞に輝く優れた才能を中央文壇に送り出している。このほか大分アジア彫刻展など九州・沖縄全県にわたる芸術文化の取り組みを展開してきた。それらのすべてのことは行政機関などの協力を得てはじめて成し遂げることができた。

 この時代を先取りした福岡の体系的な文化基盤整備の成功は、その後の福岡市・県のアジアに開かれた文化都市形成の礎となり、原動力になったと言っても過言ではない。福岡文化連盟の初期の時代を彩る最大の功績である。

 次に挨拶に立った清川昭氏は福岡市の姉妹都市締結を受けて、市芸術使節団を結成してボルドーや広州市などを訪問した高度経済成長期のグローバル化社会に歩調を合わせた華やかな国際交流隆盛の一時代を懐かしんだ。これらの国際交流活動は創立10周年を記念する福岡文化連盟芸術祭を開催した1976年5月を皮切りに、1992年までの約15年間にわたり続けられた。その後、バブルがはじけ、その機運は全国的に急速に後退していき、福文連の国際文化交流がその後復活したのは2007年からの釜山芸総との交流に限られている。

 私はそれからしばらくたった1996年に谷口治達氏に推薦されて福文連の会員になり、2001年に理事長になった青木秀氏の特段のはからいにより、2002年に理事、その翌年に副理事長に就任してから、2012年に福岡県文化団体連合会理事長就任に伴い辞任するまで、約十年間にわたり青木・多田両理事長、吉里・古賀・横尾三代の事務局長に付き合った。

 特に、当時の文連と九州文化協会は財政面で厳しい局面に立たされていたので、青木氏は「これだけ多くの借金を抱えた状況だが、必ず健全な財政運営に立て直す。君の力を貸してくれ」と、経済音痴の私には予想外の就任要請の言葉だったことを覚えている。その後、青木多田両理事長が社長だった西日本新聞社からの助成金、また、文化に携わる優れた人々と文化に理解ある企業の掘り起こしによる会員倍増と経費節減に取り組み、私の在任中にすべての借金が解消されるのを見届けることができた。しかし、青木氏の長年の夢であった、音楽学部の新設と、福岡の個人に収集されている名品の一括保管などの要望にはまだ答えきれず、大きな課題として残されたままである。

 財政立て直しに心血を注いでいた、当時の古賀事務局長は、後に「文連に寄付してくれる人はいるが、青木氏は、文化に対し本当に愛情と尊敬の念をもつ人からの浄財で立て直したかったんだ」と述べた言葉が私の心に深く刻まれている。

 韓国からの福文連訪問団一行に対して、事務局長と私の二人だけでカレーライス一皿だけ、の歓迎会を開催したことなど苦く恥ずかしい思い出が込み上げてくるが、爪を灯すような当時の努力が、今日の活力ある福文連として実を結んでいるならば、私の本望とするところである。時が移り、2012年、宗湛公演の余韻が覚めやらぬ12月に西中洲の料亭で、横尾和彦事務局長は文連のルネッサンスとして、組織の活性化を図る目的で「文連を斬る」というテーマで、若手からベテラン会員まで参加者を募り率直な意見交換会、座談会を開催した。それまでの福文連にはない、組織の在り方まで問う思い切った企画であったが、そこで浮き彫りになった問題点や課題はこの三年間の短期間の取り組みにおいて、ほとんどが順調に解決の方向に進んでいるのが喜ばしい。

 例えば、文連の組織の高齢化に対しては、青年部を新たに設け、また、文化は年齢の区別はないが、新たに顧問昇格の道を開き、新任理事の就任枠を拡大することができた。また『文芸福岡』の創刊により、美術やステージ公演の部門に比べ発表機会の少なかった文芸部門の長年の要望に答えることができた。

 更に、文連祭りの「天神アートビエンナーレ」や「望東尼」などの博多座公演においては会員の団結を促し、また、一般から将来の福岡の文化芸術を担う有望な若手新人に発表の機会を提供することができ、福文連の使命の一つでもある若手育成支援を一歩前進させることができた。更に、前回、画廊や福岡アジア美術館、博多座など、地域の施設や機関に積極的に協力連携を働きかけ、一定の成果を収めつつあるが、まだ、道半ばと言える。

 その時の座談会でも「文連とは何ぞや」と激論がかわされたが、そもそも、文化とは、文化活動とは、一体何なのであろうか。文化は衣食住を原点として芸術、学問、道徳、宗教、政治などについて、人が風土や社会から学んで身につけている生き方や生活様式で、古来その伝統を継承し、更により良く生きるために工夫を重ねてきた生活技術とも言え、地域の特徴が色濃く反映されるものである。その文化の一領域である芸術は美術や音楽、芸能、文学など、美醜にかかわらず、人間の精神性を追求する表現、創作活動と考えられるが、その観点から福文連を見ると、優れた芸術家、個人の集団であり、諸外国のように芸術家連盟と呼ぶ方がふさわしいのかも知れない。

 さて、我が国の文化に対する組織的な取り組みは文科省で早くから行われていたはずであるが、近年、目に見えた動きが起きたのは、東京オリンピック以後である。高度経済成長により、余暇の増大や高学歴化、高齢化などにより、国民の文化志向が高まり福文連発足の三年後の1968年に文化庁が創設された。その統計によると、1976年には物質的豊かさよりも心の豊かさを求める人々が多数を占めるようになり、文化活動をする人々が爆発的に増加し今日に至っている。近年のこの文化庁の施策の福岡関係へ反映された大きな事柄について話題を拾い上げてみると、日本の工業化、近代化社会を担ってきた、炭都田川の山本作兵衛氏の作品など世界記憶遺産と、北九州市、中間市、大牟田市などの明治日本の産業革命遺産の世界文化遺産登録がある。今年の福岡市博物館25周年特別展「山本作兵衛の世界」の会場には、昨年の文化勲章受章者、野見山暁治氏の若き日の傑作、筑豊やベルギーの炭坑風景が数枚、一緒に展示されている。同じ炭坑をテーマにした絵画でありながら、記憶にょる説明表現と純粋芸術表現とは大きく異なり、二人のそれぞれの精神世界の視覚にょる表現の理想の違いは、そのまま文化の違いであり、また、文化の多様な在り方の重要性を示唆してくれている。私はその野見山先生と二人で海辺を散歩中に同じく文化勲章の高倉健氏の別荘を、両氏共に受章前の30年以上はるか昔に観て感銘を受けた記憶が残っている。その高倉氏の出身地の中間市と北九州市の官営八幡製鐵所の施設も、つい先日、世界文化遺産に登録されたのは感慨深い。

 このように文化芸術の先達を多数生み出している福岡県の地域文化活動の歴史を見ると、田川文連64団体の68年の歴史を筆頭に、久留米連文1市4町、1,998人の66年、大牟田文連27団体、約3,000人の61年、北九州市文連26団体、約7,900人の52年、福岡文連個人会員約500人、賛助会員46企業団体の50年と長い歴史が続く。野見山氏の旧制中学時代の姿が写真に残されている飯塚美術協会が、今年百周年を迎えたことから推察すると、専門領域別の文化連盟の歴史は更に遡ることが予想される。

 これだけで結論づけることは早計であるかも知れないが、文連の歴史は地域の文化水準のバロメーターであることは否定できないだろう。その地域の文化活動の一端を垣間見て青春の熱き心に芸術文化の灯火を抱く若者達や、今日の少子高齢化社会における生き甲斐をもち、明るく潤いのある生活を営める地域社会の創生の取組み、更には各地域の文化力による町おこしなどの実態を見るにつけても、今程、文化の重要性が高まっている時代はないだろう。

 私達、福岡文化連盟は半世紀の輝かしい歴史を誇りとして、アジアに開かれた拠点都市、福岡の文化ブランドの旗を更に大きく高く掲げる時が熟しているような気がする。

(第6部会理事=洋画、福岡県文化団体連合会理事長)