2012 釜山芸術祭海外都市シンポジウム 宇田川 宣人

文化と国際交流

 芸術とか、文化を営みとする者は、いつの時代においても政治や経済の世界から意識的に距離を置き、純粋で自由な立場に身を保ちながら、自分の探究する芸術や芸能の本質を追究しようとする求道の生き方を本望とするものです。しかし、国際交流活動に及ぶと、政治、宗教、民族、経済など国体の違いから生ずる諸問題と向き合わざるを得ないために、芸術創作研究や文化の探究のような自由な立場だけを貫くことは難しくなります。この海外姉妹都市文化国際交流についても、都市の特徴ある芸術文化を牽引してきた人達や未来の都市の文化ブランドに挑戦している若者達が公演や展示活動を通して、切磋琢磨し、相互啓発に繋がる有意義な交流や国際交流の原則となりつつあるすベての事柄に渡って、フィフティ•フィフティの精神と経費負担で文化交流を果すためには、行政や政財界の物心両面における大きな支援が不可欠となります。しかし、福岡文化連盟の約600人の会員数からご理解できるように、連盟の国際交流に廻せる予算の額は限られた額となっています。また東日本大震災に対する対応で精いっぱいの我が国の政財界に多くの支援を期待することも今は望めない状況になっています。そのため、実際に交流に参加する人同志が積極的に協力し合い、創意工夫して企画に関わっていただき、レベルの高い充実した交流を模索すると共に、交流分野のバランスをとりながら、全会員が満足できるより効果的な国際交流の運営を目指して、智慧をしぼらなければならない状況が続いています。そのような思案を巡らしているさなかに、以前、福岡文化連盟機関紙「文化」に掲載され、なんとなく、気を止めていた言葉がふいに脳裏をよぎりました。40年以上前のことになりますが、1968年の4月の九州沖縄文化団体連合会の創立総会で財界から招かれて初代会長となった互林潔氏の就任挨拶の中のフレーズです。

 「政治と経済の結びつきはあるが、文化との結びつきは薄かった。しかし、政治と文化、経済と文化が結びつかなければ、文化の花も咲き誇らず、政治も経済も良い実を結ぶことはできないとの持論をもっているものであります。」

 当時、もし私がこの言葉に直接触れていたならば「そんなことはない」と強く抗議したに違いないと想像しますが、今の私には最もな話であると、すんなりと受け入れてしまうのは、私が文化の国際交流を推進しなければならない立場になり、思案にくれる日が多くなったせいでしょうか。その立場でこの言葉を見つめ直してみますと、文化、経済、政治の一体化を福岡において初めてポジティブに述べた先がけの発言として新鮮に写ってきますし、更に、今日の国際交流によるグローバルな社会の到来を予見し、その社会における文化の重要性を示唆した含畜の深い言葉のようにも感じて来るものです。更に、この頃に欧米の思想史の流れを変えることになったラカンやフーコ、デリタなどの著作が次々と出版され、その影響でニューヨークを中心に、様々な新しい美術表現様式が誕生し、芸術の様相が大きく変容した節目の年にあたります。即ち、この1968年は、政治や社会をテーマから外し純粋に芸術に関する世界を個人の個性により深く豊かに耕し、普遍的な理想の美を追究していたモダニズムが急速に後退し、その考え方とは対立する他者や社会、政治、経済などとの関係から生ずる様々な思いや情緒など、多様•多元的な世界の表現を求めるポストモダニズムの時代に大転換した年であることが定説になっています。偶然のこととは言え、この両地の時代的動向の一致はニューヨークに片足を突っ込んで芸術活動をしてきた私にとっては大変興味を引く事柄であります。実は、その頃、福岡市には専用の美術館もなく、あまり広くない県立の文化会館や体育館にパネルの壁面を設置し、美術や文化の展示をせざるを得ない時代で、経費と施設設備の環境を考慮すると民間を中心とする芸術文化の国際交流の願望はすぐに萎んでしまう時代でした。しかし、その時代、1972年にその文化会館において、ソウル国立中央広報館でスタートした日韓美術交流展が巡回されました。その後、この展覧会は名称を変えてアジア15ケ国•地域が参加するアジア国際美術展として成長しながら、今日迄40年以上続いている伝統と実績を誇る国際交流展となりました。私は長い間、副代表、代表として運営に携わってきましたので、国際交流の先駆けとして、また長期に継続している民間の芸術家によるの国際交流の好例としてその交流の実態について振り返り、このシンポジウムのテーマである芸術家の役割と展望について考察したいと考えます。また、つい先日に、先に述べた文化と政治経済の一体化の一例となるような国際交流に同行し、新たな感慨を得て帰りましたので、そのことについても少し、触れて、報告したいと考えます。

芸術家による民間の国際交流

 このアジア国際美術展は大学時代に同窓であった韓国の故リュウ•キョンチェ氏と日本の故秋吉資夫(スケオ)氏の画家としての友情を原点として、ただ、純粋にアジア美術の充実と発展を夢見る情熱につき動かされるままに走り続け、結果としてアジア諸国の多くの画家の賛同を得て、自然なかたちで拡大成長して行った民間の画家の手作りによる国際交流展と言えます。常連参加国•地域は、日本、韓国、マレーシア、シンガポール、フィリピン、タイ、ベトナム、インドネシア、モンゴル、インド、オーストラリア、中国、台湾、マカオなどで、通常200人以上が出品し、100人以上の海外出品者がオープニング行事に參加し、交流を深めるため、ホスト役の主催となる各国地域委員会は、大規模な経費と設備を必要とするため、輪番で開催の条件を整った国や地域が手を上げて開催してきています。これ等の国や地域の顔ぶれを見ますと、オリンピックと同じような平和を目指した国際美術の祭典とも思え、各国政府の協力で特別な問題もなぐスムーズに運営してきたように見る人が多いと思いますが、実は単なる民間交流の位置付けですので、大臣や市長や政財界の有力者が出席したとしても、超国家的な運営が認められる訳ではありません。主催国と正常な国交がない国や地域は暗黙のうちに参加を見送り、国交があっても、ビザが発給されず開会式に出られない国もあります。何らかのミスやその国の制度や風習で作品の入管手続きができなかったり、また不当と思われる当地の運送会社の入管に関する経費の要求に対し、従える予算をもつ国は幸福であるが、出品をあきらめる国や怒る国もでてくる始末で、開催当日まで予断を許されない状況が続きます。その結果として、入管できない国の展示スペースに作品がかけられてないまま開会式を迎えたことも何回か経験しました。このことが官制の展覧会との大きな違いで、会員の出費で運営しているどの国の委員会も毎年一番頭を悩ませている問題です。また、その国の法規定に触れて作品が展示されてない場合があり、表現の自由を巡って激しいやりとりが繰り返されますが、開催国の美術家においても、それをテコとして表現の幅の拡大を自国にアピールできる機会でもあるため、代表者協議会において議論を尽くすことが重要になっています。また、特に発足して最初の10年間は慣れないこともあり、いろいろな困難が続きました。例えば、その頃は大きな経済格差があり、日本開催時にはオープニング行事に参加し易くするために、全参加国に助成金を配布したり、更に香港やマカオの返還前の時期でアジア諸国全体が政治的にも不安定で、不透明な時代でしたので、それらの理由から、急に開催が中止に追い込まれた時は、日本の美術館での肩代わり開催にこぎつけたこともありました。振り返って見ますと不測の事態ばかりが続き、問題が起きるたびに、暗中模索が続き、あがきながら続けて来ましたが、その度に国境を越えた美術家同志の友情が深まって行ったようにも感じています。最近も国交の関係で作品は持ち込めず、入国審査も長引いて、正式な会議には参加を見送り、ひっそりと行動せざるを得ないある国の代表者のために、閉会式において隣国のシンガポールの出席者がその国のブンガワンソロを手を振って大声で歌ってエールを送っていました。このような素朴な美術家ならではのパフォーマンスのシーンを見るたびにアジアの美術家の連帯が広がっていくような気がしています。このように困難を引きづり、泥んこになりながらも中断することなく、ここまで続けて来ることができた一つの理由は展覧会と共にアートフォーラムを開催し、長年にわたり各国•地域の芸術の諸問題について、テーマを掲げて発表し、率直に討論を重ね、取り組まなければならないアジア現代芸術としての課題や情報についての認識を共有することにより、アジアは一つでありたいと願う美術家として絆が堅く結ばれていったからだと考えています。今日のアジア現代美術は、欧米の芸術思考や表現様式に民族の思想や造形性を組み込んだ表現、また、政治や宗教、思想の対立と抑圧と抗争など、異文化共存、格差と貧困、文化の伝統と革新の葛藤など、現代アジア社会が抱える矛盾や困難なテーマを主として様々であります。多くのアジアの現代美術家は植民地時代から受け継いだ人間としての屈辱と恨みの痕跡を消え去ることができないまま、今日の課題の表現に取り組んできましたが、また一方植民地以後の文化プロセスとして、アジア人として近代化と西洋化の区別を明確に意識しながら、各国•地域の文化的価値観とアイデンティティを犠牲にすることなく、アジア現代美術の可能性に挑戦してきました。その結果、丁度アジア全体における経済成長に重なったことも幸いして、東南アジアなどにおいて、この国際展による影響などで美術館建設が進みました。また、欧米では1970年代からモダニズムが行きづまり、ポストモダニズムへの転換期が来て、フェミニズムアートやアジア現代美術が一躍グローズアップされることになり、今日のグローバルな芸術的価値観を得ることになりました。このようにアジア現代美術が世界現代美術における大きな潮流への成長に一定の役割を果したことは、この国際交流の大きな成果だと受け留めています。この国際交流は国家間の政治経済の壁による問題を抱えながらも、また自国での開催時には、各国のそれぞれの芸術家としての人間的繋がりをもつ、政財界や行政、美術館関係者から、心温まる応援や支援をいただいてきたのも事実ですが、芸術の自立性を保つために可能な限り、それらとの依存関係を抑制しながら、長い年月にわたり、アジア現代美術の理想の追究を最優先させて、純粋に芸術を支柱とする姿勢を貫き通すことができた、まれな文化の国際交流のケースと考えています。

政治経済の国際交流と文化

 次に政財界人の国際交流が文化の花を咲き誇らせ、政治経済においても実を結ぶことができた例について報告します。私はこの8月に福岡県と江蘇省友好提携20周年事業、福岡県経済文化交流団の多数の政治、経済、行政、文化関係者の一員として、南京を中心とする江蘇省を訪問しました。私が当初、注目していたことは、南京事件はじめ歴史的認識や領土など国家主権の問題の解釈に大きな開きがあり、民主主義と共産主義と言うイデオロギーの違う国に住む、県と省の議員として政治をつかさどる立場にある諸氏が、いくら友好提携関係があるからと言って、文化の交流のように人間的に心の通い合う交流ができるのだろうか、もしそうであるならばその交流の様態や内容、その成果などはどのようなものなのだろうかと言う交流の実態についてでした。交流が始まってみると、全人代訪問、博物院の見学、晩餐会などすべての行事において、江蘇省側の温かい配慮と大歓迎ぶりに接して、予想を越えた人間的な信頼関係が築かれているように推察されるものでした。実際に、この交流は長い歴史があることがわかり、中国の革命を実行した孫文と福岡の政治家との友情が発端となってここまで継続しているとのことでした。福岡側は、その後、元福岡市長だった故進藤一馬氏や多数の政治家に受け継がれて、今回の交流団に参加した県議会議長はじめ各会派代表者、日中友好議員連盟の議員に受け継がれ、江蘇省側は江蘇省書記はじめ人民代表大会の役員諸氏に受け継がれ、今日に至っていたとのことです。その交流を通して造成された福岡県江蘇省友情桜花園のリニューアルオープン式典に参加した時は、日本の心の花である桜が多数植樹された美しく大きな庭園を眺め、更に、福岡の東公園には江蘇省の美しい石で造園した江蘇省友好庭園が造成されていることを聞くと、長い間の両国の政治家同志の交流が文化の花を咲かせ、政治の果実を結ばせた姿を見たと実感したものです。また、経済と文化についてもしかりで、南京の街に福岡の経済人が参加して建設したアクアシティにおける福岡フェアの開会式に出席しましたが、日本の三味線や民謡の音が響き、若い学生達のファッションショーで文化の花を咲きほこらせ、経済の実が結びつつあるのを直感した次第です。

心と心の交流

 私のような文化の側に立つ者から見ると政治や経済の国際交流は、単なる儀礼的な交流になり、文化の国際交流の毎く、人間と人間、心と心の交流まで到達できないのではないかと考えてきましたが、今回の参加で、そうとばかり言えないことを実感することができました。また、政治や経済が実を結んだ姿には、文化が不可欠であることを確かめることができて、心強く感じました。更に国際交流により美しい花や大きな実を結ばせるにはいずれの交流についても、人間としての心の交流まで到達することが最も肝要なことであると改めて確信しました。それには先の二つの例でも理解できますように相互に現在の国体や国や都市の歴史や生活などを知り、今日の文化形成の背景や芸術の創造の原点を理解し、尊重し、また自分の国や都市の文化芸術を誇り、積極的に語り合う、フェイスツウフェイスの交流を行うことにより、心から自然と湧き上がる感動を伴った喜びのなかで連帯を強め、人間的絆を堅く結び合えることが重要なテーマになってくると考えます。いずれにしても、国際交流には心と心の交流を通して、冨や権利の追究においては得ることができない、自由や幸福を勝ち取ることができ、世界平和への道に繋げる大きな役割が秘められているような気がしています。

(釜山芸術祭海外都市シンポジューム講演集、2012年9月)