博多テンペラ起居往来記
東京芸術大学生の頃
私はテンペラに夢中になっていた頃を無性に懐かしくなることがある。既に20代半ばを越えた自分に新天地博多が再び全く新しい青春の息吹を与えてくれた時代だったからである。テンペラに繋がる予兆は東京芸大最後の7年目の秋の終わりにやってきた。それは田口安男氏との偶然の出会いから起こったことである。
当時の芸大では、モダニズムの理念から政治や社会への関心を意識的に避け、フォビズムから抽象美術あたりまでのフランスのモダンアートに造詣の深い小磯良平、山口薫、牛島憲之、久保守などの教授陣の指導の下に大学院へ進み、優秀な学生の多くは新制作展や独立展、国画会展、モダンアート展などで活躍しようとするか、更に純粋な画家の道として個展やグループ展で活動しようとする学生が一般的であった。それに対して、新宿や室町、銀座などのポップアートやもの派、コンセプチャルアート、ミニマルアート、インスタレーションなどの現代美術の現場に呑み込まれながら過ごし、現代美術のコンクールに活路を見い出そうとする学生も多くなっていったし、政治や社会に目覚め、大学の授業にほとんど出席しないで、学生運動や宗教活動にのめり込む学生も目立ってきた時代であった。
今振り返ると、工業化社会から情報化によるグローバル社会に移行する過渡期にあたり、芸術の世界でもモダニズムからポストモダニズムへの転換期で、我が国の美術界が欧米からのこれらの新旧の相反する芸術思想の葛藤の真只中におかれていた時期である。しかし、当時の芸大においては転換の現場であるニューヨークなどからの情報も少なかったし、また、ロバート•ベンチュリーのような時代の転換の意義を講義する教授も望むベくもなぐほとんどの学生がその二つのイズムの相違点についても、その転換点に居ることも明瞭に認識できないまま、大学の授業と現代画廊や芸術新潮、美術手帖などの情報から得た直感をたよりに、自分達だけが本当の現代美術を追究していると思いながら、モダンアートとポストモダンアートの世界を漠然と行きつ戻りつ浮遊していたと言える。私もその例にもれず、大学に真面目に通い、空手部にも属し体と精神を鍛え、銀座、室町、新宿の現代画廊にも通い続け、時間講師や都美術館のアルバイト代で画材を調達し、留学の夢を追って、アテネ•フランセでフランス語や教会のドイツ人の牧師に英語会話を習ったりと超多忙な日課をこなし達成感を味わっていた。
田口安男氏との出会い
その最後の年、1970年の秋も終る頃だったと思うが、私が小磯教室の研究生のアトリエで制作していると、ドアをノックして二人の男が入ってきた。二人共初対面であったが、1人はすぐ「かげとかげり」の安井賞作家の田口安男氏とわかった。私は芸大1年生だった1964年の冬、高度経済成長が始まっていたが、その秋にオリンピックが終り東京の街も少し落ち着きをとり戻していた頃に、当時京橋にあった国立近代美術館の安井賞展の「かげとかげり」を見て、大きな衝撃を受けたからだ。
その頃に現代美術の世界を凌駕していたアクションペインティングのポロックの筆勢を残しながらも、強い意志から導き出された鋭い線描や混沌とした空間に蠢く手の表現と靉光やルドンを想起させる時代を凝視する眼の表現はその頃の鬱勃として過ごしていた私の心に大きな希望を与える作品であった。もう1人はサエッティと名乗り、イタリアのフレスコ画の教授で、帰国して間もない田口氏が芸大を訪ねたこの教授を案内中だったと思われる。サエッティ教授はアトリエに並べてある私の数点の絵をゆっくりと眺められ、しばらくして、落ち着いた静かな声で話された言葉を田口氏が「作品は完成していて、何もいうことはない」と通訳された。この時の私の記憶は曖味で自分の都合のよいフレーズしか覚えてないと思われるが、もちろん、今も私はこの言葉に対して初対面のイタリア人の儀礼的なサービスとしか受けとめていない。しかし、東京スモッグのようなカンペのスプレー塗料でぼかして仕上げたあの時期の乱暴な自分の技法を思い出すたびに、古典技法のエキスパートの二人の先生の本心を推し測るのもはばかる程の苦い思いが込み上げるし、また、テンペラを携えて帰国したばかりの先生を前にして、テンペラのテの字も頭をかすめなかったあの頃の自分の浅はかさに大きな幻滅を感ぜざるを得ないでいる。
この時は田口氏がテンペラ技法を1968年10月から1970年10月迄ローマのレスタウロ(国立ローマ中央修復研究所)でバルディ教授の下で修得して帰国したばかりの時期と推察している。その10月からすいど一ばた美術学院のプロフェッショナルコースの主任となり、黄金背景テンペラ画の指導を開始し、東京芸大でも非常勤講師を務め始めた。田口氏は更に72年にはイタリア人画家G•メルクリアーノ氏からリンシード•卵黄•膠糊を混合するクレーなどが使用していたと推測されているテンペラを修得し、すぐにこの技法で多くの作品を描き始めている。その後田口氏は73年に芸大の油画コースに専任講師として赴任し、助教授、教授として多くの画家を育成した。現在は、東京芸術大学名誉教授、いわき市美術館名誉館長である。
九州産業大学と春口光義氏
その田口氏との出会いの時から、3か月後、私は1971年の春、26歳の終り頃に小磯先生にも芸大にも東京にも別れを告げて、高島屋の画業50年小磯良平退官記念展の見学の足で東京駅から「あさかぜ」にゆられて4月7日に博多駅に到着し九州産業大学に赴任した。着いてみると、事前に薦められていたアパートはラーメン屋の2階にあるはずであったが、そこは平屋づくりの建物であり、みんなで笑ってしまったが、その時夕方に熊本へ帰るので自分のアパートに泊って下さいと手を差しのべた人が春口光義氏であった。春口氏はウィークデーは唐ノ原のアパートで1人ぐらしであったこともあり、二人はよく話すようになった。
春口氏は世界一周の美術行脚の旅の後に学ぶ価値があると定めたところがウィーン造形美術大学のルドルフ•ハウズナー教室で、1969年4月から1970年3月までその大学に留学し、樹脂テンペラと油彩による混合技法をマスターした。帰国するとすぐに、当時、九産大の銅版画の集中講義を担当していた浜田知明氏の紹介により1970年4月から九産大の助教授として就任した。私が初めて春ロ氏と会ったのはその翌年の春のことになる。
東京に居た頃は、ハップニングやパフォーマンスについての話題もよく聞かれるようになっていたが、その頃、その最も早い時期に私は友人の岩田甲平君や梁島晃一君、多摩美の関根伸夫氏らに誘われて南浦和駅近くの加藤俊雄君のアパートとロータリーで実施された「ハップニング」に參加した。その後、私は彼らの新鮮な芸術観に深い関心と共感をもち、一時、最先端のいろいろな表現形式に挑戦を試みたものの、それが自分が進むべき本道かどうか確信が持てずに、また、時流を追うことや派手な集団行動に嫌悪感を覚える性分を克服できずに、結局、初心に帰り、好きな絵を描くなかで自分の表現を見つける道を歩むことを決断していた。また、その頃のモダンアートの範疇ではアメリカの評論家のクレメント•グリーンバーグのフォーマリズムの影響により抽象が花咲りで、人間を扱う作品は見向きもされない時代であったが、私は人間とその心の表現に執着して離れることができず、1968年から70年の大学院生から研究生までの3年間の新制作協会展出品作は完全に抽象画とみえる画面の中に人の顔や体などを忍び込ませて人間の心を表現しているつもりだった。
私がそのような直後に博多に来て、文化ショックの最中に桁外れのスケールの大きい難解な「思考のはらわた」のような春口氏のエロスの表現を見た時は、大きな戸惑いを感ぜずにはいられなかった。しかし、私は春口氏との会話の中から「人間とは何か」という深遠なるテーマの下に、人間の生き様や性の違いによる思考の差異などを観察し、現代に生きる人間の悲哀と宿命を表現しているということが分かってくるうちに、私の追究してきたこととの関連性や共通性を感じるようになり、次第に共感を持つようになっていった。
またハウズナーはじめウィーン幻想派の画家達が15世紀のヤン•ファン•エイク等の技法から研究したといわれている、半油性の白亜地の上に樹脂テンペラと油彩により交互に仕上げていく混合技法による春口氏の制作方法を初めて見学した時は、油絵の上に水で描いていく樹脂テンペラの魔法の表現に驚いてしまった。私は早速、その場でエマルジョンを分けていただき、試し描きを続けているうち、次第にこの技法のとりこになってしまった。これが1971年の夏の初めの頃で私のテンペラの出発点である。
デルナーの技法書と混合技法導入期
その時、その混合技法の根拠となる技法書として、MAX DOERNER著「MALMATERIAL UND SEINE VERWENDUNG IM BILDE」という原書本を見せていただいた。私はその本をさっそくドイツに留学した友人に頼み手に入れたが、既にその原書は春口氏から母校の京都芸大の木村重信教授に送られ、津田周平教授とドイツ語の石田正教授により、ほとんどが翻訳されゼミ授業で活用され、また、確かめた訳ではないが、その一部を研究紀要にも掲載されたと聞いた。私は春口氏からそのプリントのコピーを分けてもらい、その樹脂テンペラのエマルジョンの作成法なども指導いただき、実際の制作に活用し始めた。また翌年、九産大芸術学部に新たに専攻科が設置され、そこでも春口氏のテンペラ技法の講座が設けられたので、改めて学生と一緒に下地や樹脂テンペラエマルジョンづくりから彩色までの技法を修得した。またその講座は現代美術の発想の重要性やハウズナーやフックス、レームデン、ブラウアーなどのウィーン幻想派やドイツの美術家の生き様などについて、春ロ氏の生の体験が熱っぽく講義され、非常に新鮮で内容の濃い演習であった。
その年、1972年4月から東京•神戸•名古屋の小田急百貨店において「ウィーン幻想絵画展」が開催され、我が国において初めて、ルドルフ•ハウズナーはじめ本場の混合技法作品が披露された。それは多くの人の眼に現代美術と古典技法の結合の美の偉大さを焼き付かせることができた出来事であった。その時、春口氏がハウズナー教授の来日を儀礼面だけでなく、混合技法作品へのライト投影の特殊性に言及されたのを覚えているが、実際、私はそのことを思い出しながら鑑賞してみると混合技法の特徴についてよく理解することができた。
春口氏は1971年に安井賞展や72年の第3回レヌフ展、73年の大阪フォル画廊東京店における大個展(名古屋•大阪•福岡)などで混合技法の作品を発表し始め、全国的に注目されるようになり、作品制作に専念するため九産大を73年3月に退職した。春口氏はわずか3年間の博多の生活であったが、今も、博多におけるその存在感と影響力は増すばかりで衰えることはない。その後、春口氏は79年4月に熊本短期大学に赴任し、後に熊本学園大学に教授として就任し、伊万里出身で芸大でテンペラを修得した田中均氏等を熊本短大に採用し、また九産大出身の高校の美術教諭の高橋幸二氏等を加えて、熊本においても多くの混合技法画家を育成し、テンペラを普及してきた。現在は熊本学園大学名誉教授、熊本県美術連盟会長である。
1975年になると春口氏とウィーン造形美術大学のハウズナー教室で同窓であったハンノ•カールフーバー氏が夏休み中を利用して初来日し、熊本の春口氏宅に滞在の折、私を訪問した。その時、私は研究室で彼の作品のスライドレクチャーを九産大の学生や芸大から訪ねて来ていた田中君達と一緒に見た記憶がある。その後、私は彼にとっては初めての東京を4、5日に渡って案内した。日本に興味をもっていたカールフーバー氏はその後、大阪で語学を学んだ後、1980年から81年に東京芸大大学院で日本画を学び81年と82年に個展を開催した。また83年の4月には紀伊国屋画廊でハウズナー門下生のカールフーバー、ガンゼルト、フェリンの企画展があり、ウィーン幻想派第2世代の展覧会として話題になったが、この頃には多くの画家が混合技法を活用するようになり、混合技法も一般にも知られるようになっていた。
私のテンペラ作品発表活動とテンペラ文化の動向
私は1971年4月に九産大に赴任後、春口氏から修得した樹脂テンペラによる混合技法を夏頃から試し始めた。翌年の72年9月の第5回朝日西部美術展では「青春5-窓」と「青春6-欲望」が特選となったが、私は77年2月の国際青年美術家展の「遊戯-崩壊」や78年4月の安井賞展で「遊戯-花見酒」が入選するあたりまでの「青春」と「遊戯」シリーズについて混合技法の油の層に水で描く樹脂テンペラによる混合技法の魔法の力の支えによるところが多かったと考えている。
私は博多で描きためた5年間の混合技法作品を東京のみゆき画廊とシロタ画廊において1976年から4回にわたり連続して個展として発表したが、1977年9月のシロタ画廊の個展において田口安男氏の訪問を受け、そのことが黄金背景テンペラが博多に訪れてくるきっかけとなった。私は個展会場で友人と夢中で話している時で、田口氏が会場に居ることに気付いていなかったが、「作者はどなたですか」と言う声に「私です」と答えて後を向くと田口氏だったことが分かり、一瞬戸惑うことになる。田口氏の方は前に一度会ったことなど全く気付かぬ様子で、初対面のような丁寧な言葉でパネルに日本画の麻紙を張って筆でほどこした白亜地やボードに金ベラで作成した白亜の半油地、全卵とリンシード、ダンマー、蒸留水のエマルジョンのことなど私が実験として試みた技法を逐一確認するように質問を続けられた。その頃、樹脂テンペラは既に芸大でもすいど一ばた美術研究所のプロフェッショナルコースでも坂本一道氏や佐藤一郎氏などによって指導を始められていたはずで、また、教師陣は共同で古典やそれに対応する新しい絵画材料の研究開発に取り組んでいたというニュースが画材メーカーのホルベインの人や教え子の芸大生などから伝わっていたし、実際田口氏が黄金背景テンペラ画の技法を美術出版社から出版したのは翌年の1978年12月20日のことだから、田口氏はこの技法に精通していたと思われ、ただ、なるほどとうなずいたり、確かめたりするふうであった。私が自分の作品について感想を求めるとこの「雨」のような方向がいいのではないかとお言葉を頂き有難く感じた。
私はこの2回目の田口氏との予期せぬ出会いの後に、博多に戻ると、美術学科会議において黄金背景テンペラ画科目の大学院への導入の必要性を提案し、了承を得た。私は早速、その年の1977年12月16日に上京し、夕方にセントラル美術館における田口氏のイタリア帰国後初めての個展の会場を訪れ、田口氏に美術学科の意向を伝えた。その田口氏の個展大会場は、安井賞作品を含めて、初期から留学後の黄金背景テンペラ画数点とミックステンペラの大作が多数展示され、見学客がごった返していて、私はさすがに今を時めく大作家の面目躍如たる展覧会であると感嘆させられた。その画家が人間的繋がりのなかった私の個展を見学した理由について、当時芸大生だった今泉憲治君は、彼が芸大の絵画棟のエレベーター内に張った私の個展の案内状を見た田口氏が、その作品の技法に興味を持ったからだろうというような、私にとっては光栄な推測を披露したが、私は田口氏が技法についても完璧主義者であることを考慮しても、セントラル美術館の本人の個展の2ヶ月前に、また「黄金背景テンペラ画の技法」の発行1年前の超多忙と思われる時期に、私の個展を訪問したことは私にとって奇跡的な偶然と思いたいし、また、九州の美大生や美術家達にとっても、もってこいの幸運な出来事だったと受けとめている。
また、この1977年のシロタ画廊の個展の時には佐藤一郎氏も訪ねてきて、もう一つのテンペラについても議論が深まり進展することになった。実は、当時、元九大の文学部長の谷口鉄雄教授が初代北九州美術館長を兼ねて九産大の教授に就任していて、谷口氏は以前に九大図書館へ所蔵された古いドイツの技法書の翻訳を今はデューラー研究の第一人者になっている九産大の下村耕史氏に依頼し共同研究することになった。下村氏は春口氏を通じて京都芸大でも翻訳が進んでいることを知っていたので、谷口氏と相談し、まだ翻訳されてない、また、学生に最も參考になりそうな章を訳すことになった。その時下村氏に頼まれて私は実技に関する専門的な言葉について、泊まり込みで助言したことを覚えている。それが「マックスデルナー著『絵画材料と絵画におけるその使用』の10章で1300年代のフィレンツェの絵画技法とチェンニーニの絵画論とテンペラ技法、ヴァン•アイクと昔のドイツ人の技法(混合技法)、ティツィアーノとヴェネチアの技法(テンペラの上に樹脂油絵の具)など」で、それは1978年と79年の九州産業大学芸術学部研究報告第10卷と11卷に掲載された。その78年の紀要に掲載前の原稿のコピーが私から帰福中の今泉君に渡り、更に芸大の絵画材料研究講座を担当していた佐藤氏に渡ったと思われるが、佐藤氏は私の個展を訪ねて来て、作品を見た後、デルナーの技法書について既に完訳し、美術出版社から出版予定であることなどを話されて帰られた。その後3時間後に戻ってきてアトリエ出版社から刊行されていた佐藤氏と絹谷幸二氏、有元利夫氏等の制作風景と解説が掲載された、その年発売された「アトリエNo605 7 ‘77•古典画法の生かし方」をプレゼントされた。私は春口氏から73年の大阪フォルム画廊東京店の個展の際に訪ねて来た佐藤氏が技法や留学のことなどについて、春口氏に熱心に質問されたことや当時大阪フォルム画廊の藤井公博氏と春口氏と二人で芸大の大学院生アトリエに佐藤氏の作品を見に行ったことなどを伺っていたので、佐藤氏の猛勉強ぶりにも、また、東京におけるテンペラ普及のスピードの速さにも驚いたが、実際に、この2年後の1980年10月25日に美術出版社から発行された「マックス•デルナー:絵画技術体系」を見ると、佐藤氏のあの時の強い意気込みが伝わって来る誠に貴重な古典技法の翻訳書となった。私は博多に戻り、谷口、下村両氏に佐藤氏の出版予定の件を伝えると、両氏はほとんど完成していた1979年の紀要掲載分を仕上げて、その後の翻訳は中断することになったが、この両氏の紀要の論文は学生の実技指導に大きく貢献することになった。
九産大の黄金背景テンペラ演習とテンペラ文化の普及
その田口氏の個展から3年が過ぎて、実際に田口氏の黄金背景テンペラ画の集中講義が九産大で開始されたのは1980年からである。その実習は本格的な工程の指導を実現する目的で5月27日から31日迄と6月23日から25日迄の2回に分けて開始されたが、それでも時間が足りず、学生達も私も四苦八苦しながら未完成に終ったことを覚えている。また田口氏と私達は余暇の時間に香椎宮の裏山などで土を採取し、水簸してテンペラ絵具を作り、試し描きをするなど、この時から博多の黄金背景テンペラ画を試行する取り組みが始まった。思えば、このテンペラが田口氏により我が国にもたらされてから博多に到着するまでは長い長い10年の時の流れを待たねばならなかった。この黄金背景テンペラ画が東京から遠く離れた九州への上陸により、実質的にテンペラの多様な技法がほとんど全国に行き渡り浸透し始めることになったと考えられ、テンペラ先駆者達の試行錯誤と、我が国にマッチするテンペラの研究と教育の導入期はこれによって一定のピリオドを打つことができたと言えるかも知れない。
実際に、1968年7月にフランスのグ•ザヴィエ•ド•ラングレの著「油彩画の技術」が黒江光彦氏の訳で、美術出版社から発行されて、これが本格的な西洋画の技法書の先駆けとなったが、1970年に田口氏と春口氏が修得してきた2種類のテンペラ技法が当事者により、大学における教育研究の一環として開始されたことは画期的なことであり、また、誠に有意義なことであった。その技法による作品は、73年に春口氏の個展において、また77年の田口氏の個展において、それぞれ題材的に発表され、その個性とそれぞれのテンペラ古典技法の融合した現代絵画としての創造美はみごとに花開き、高く評価された。それ等の過程を経て、78年に田口氏の「黄金背景テンペラ画の技法」が出版され、興味ある画家はどこに住んでいてもこの技法を用いて制作が可能になった。また、80年には佐藤氏の「マックス•デルナー:絵画技術体系」が出版され、西洋の多様な古典技法の修得にも便利さが増して行った。更に同80年9月のみゆき画廊の私の個展に有元利夫氏が訪れ、私も同時期の彌生画廊の有元氏の個展を見学したが、その時出品していた有元氏の「室内楽」がその年の安井賞に選ばれた。テンペラ画が我が国において初めて大きな賞を受賞し、一般社会にもテンペラという言葉が認知されるようになった出来事である。更にこの80年にウィーン幻想派の第2世代のテンペラ画家としてよく知られているカールフーバー氏が芸大の大学院で日本画を学び始めた。テンペラのステップのための表現技法として日本画を選んだこのカールフーバー氏の試みは一見、不可思議に写ったが、一方ではこれまで日本画と西洋画は水と油のごとく相反する絵画技法として考えられてきた、我が国の既成概念に疑問符を投げかけ、元をただせば両方共に水で描く技法の共通性や類以性の視点を浮かびtがらせることができた。同時に、これらの動向は我が国の導入期の多様なテンペラ文化の様相の変容を垣間見せた出来事であり、これらを期に、日本のテンペラ画は多くのテンペラ第2世代の活動を加えた、テンペラの普及期に入って行ったと考えられる。
九産大の田口氏の黄金背景テンペラ画の集中講義はこの1980年から98年まで連続して、また2000年と01年の合計21年にわたり芸大退官後も70歳に至るまで実施され、200人以上のテンペラを知る学生を育成した。その間、1994年8月の講義からはスタンドリンシード、膠液、アンモニア水のOGテンペラメデューム(練り込みテンペラ)についても指導され、2001年8月の最後となった講義では、後に講義を受け継いでいる紀井利臣氏からの教示として、田口氏の著書の黄金背景テンペラ画の技法の補遺として保存についてのワニス塗りについての講義と実習が付け加えられ終了した。
この講義の後を受け継いでいる田口氏の愛弟子の紀井氏は2006年9月1日発行の誠文堂新光社の「黄金テンペラ技法」の著者で、現在、跡見学園女子大の准教授である。北九州市出身のマルチ研究者で楽器や絵画のニスの研究でも著名である。紀井氏は九産大において1999年と2002年から今年まで連続して集中講義を担当し、12年間で約100人の学生を育成し、12支の暦が一回りした昨年、11年9月に九産大の33年の実績を誇る博多の黄金テンペラの産声となる「黄金の叫び展」の企画に尽力した。この長い黄金背景テンペラ画の集中講義の歴史は制作工程の複雑さとデリケートな作業を伴う特殊性などから八木穂氏や加藤恵氏等の助手としての献身的な働きがなかったら続かなかったと思うし、田口氏を旧制磐城中学から、新制磐城高校となる時期にかけて、初めてデッサンを指導した太宰府出身の柴田善登氏の存在や、田口氏が芸大赤羽僚で一緒に青春を過ごした仲間である豊福孝行氏や児島幸雄氏との友情がなかったら実現は難しかったと考える。更に光行洋子氏、下村耕史氏等の多くの九産大の関係者や博多の人達のテンペラに対する興味と、その指導者達の熱意に対する尊敬の念がここまでテンペラを支えてきたと考えている。今では混合技法と黄金背景テンペラ技法はアジア国際美術展において、春口氏や紀井氏、私などの作品によりアジアにも広がり注目され始めている。私はこれらの博多におけるテンペラの長い時の流れを共有できた一人ひとりに深く感謝して、特に1970年から80年までの10年間の我が国におけるテンペラ導入期を中心とする、私が博多に居て体感した記憶を記したテンペラの起居往来記を終える。
(ARTing 08•2012)